2011年1月17日月曜日

D.C.2日目

想いを言葉にできない悔しさ。D.C.に来てから余計に悔しさが増した。

日本の大学に交換留学生として行くことを悩んでいたブラザーがいた。ブラザー、日本語で言うと変な感覚。友達以上の関係、同じグループに属している仲間。そんな仲間が困っているのに、適格に伝えてあげることができない。

言葉が出てこないわけではない。文章を構成できないわけではない。ただ、もっと分かりやすい言い方があるはずなんだ。彼の不安を解消してあげることができて、自分の選択に自信を持って進んでもらえる、そんな言い方があるはず。

もちろん日本語ならスラスラ出てくるわけではない。真剣に相手の立場にたって、言葉を選んで、構成を考えて。そうして出てくる言葉で、なんとか話をしている。それでも理解してもらえなかったり、言いたいことと違う意味になってしまったりすることがある。

一体留学していたときの自分は何をしていたのだろう。もっと考えて生活していたら、今の自分は違ったのかもしれない。いや、あの頃はそれで精一杯だったのかもしれない。新しい生活に慣れようとして、目の前にある壁を越えようとして。語学の壁を見たときに、リスニングの壁、単語の壁という大きい壁の前に、他の壁を見えていなかったのではないか。もしかしたら他の壁の片鱗を垣間見たとしても、大きな壁に盲目になり、他の壁の存在を計算に入れることすらやめていたのではないか。

さて、今からどう生活するか。構成を考えて、適切な言い方を常に考えて生活していくつもりだ。ただ、今度は適切な言い方という壁に盲目になり、他の大切なことを見失ってしまうかもしれない。恐怖心と、時間を大切に使わなければという焦り。

人間は見たいものしか見えない、と多くの人が言う。たぶんそれは正しいのだろう。では自分にとって見たいものは何なのか。全体だけを見ていれば良いのではなくて、個々の問題だけを見ていれば良いのでもなくて、両方のバランスを考えて見て行きたい。

アメリカに来て、まだまだ足りない部分の多さに気がつかされる。

と言いながら、週末のパーティ疲れで頭がまわらない。朝の4時まで楽しく飲んでしまった。

そろそろコーヒーでも飲んで、頭を無理やり起こそう。昼の間に考えておかなければ、だって今日もみんなの楽しく飲むのだから。

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